今から1250年ばかり前のことです。「咲く花の匂うがごとく」とうたわれた奈良の都で、世紀の大事業である東大寺の大仏建立が(着々)と進められていました。その東大寺へ宇佐宮の女禰宜・大神杜女が八幡神の神輿のお供をして、紫の輿に乗って転害門をくぐりました。紫の輿とは天皇が使用する高貴な紫色の輿でした。転害門では大勢の僧侶、文武百官が出迎えました。東大寺では八幡神を迎え、聖武太上天皇、考謙天皇、光明皇太后の行幸のもと、文武百官も列席し、僧侶5000人の読経、呉楽、五節舞などの法要が賑々しく営まれました。三年後の天平勝宝4(752)年に東大寺大仏開眼法要がバラモン僧の菩提僊那を導師として、インド、ペルシャの僧をはじめ1万人の僧侶が列席して、5000人余りの楽人などによって盛大に営まれました。『東大寺縁起』には、次のように記述されています。開眼法要のため聖武太上天皇・孝謙天皇が大仏殿に入御され、続いて八幡神も入御になった。そのとき、内裏に「天下太平」の文字が出現したが、これは「神明霊威」によるもので、おめでたいということで、年号を天平勝宝から天平宝字に改元したとしています。
奈良の都から遠く離れた宇佐の八幡神がなぜこのような晴れがましい待遇を受けたのでしょうか。聖武天皇は国家的大事業として東大寺を建立していました。日本は神の国です。天皇が沢山の費用を使って仏教寺院を建立すれば、貴族からどんな反対の意見が出るかもしれません。そんな心配のある時に、宇佐の八幡神から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」という協力の託宣が出されました。八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させるというのですから、聖武天皇にとって、これほど心強いことはありません。大仏に塗る金が不足すると金は必ず国内より出るという託宣を出し、やがて陸奥国(岩手県)から金が献上されてきました。朝廷から褒美として八幡神に封戸800戸・位田60町がおくられました。東大寺が完成すると東大寺を護る神として、寺の近くに手向山八幡が分霊として祀られました。八幡神は奈良の人々に強力な印象を与え、国家神としての第一歩を踏み出したのでした。
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