| 仏教と銅と新羅神 |
宇佐での神仏習合を考えるうえで注目されるのが、7世紀の末ころに建立されていた古代寺院です。『託宣集』には、隼人征討には八幡神とともに、虚空蔵寺と法鏡寺の関係者も加わっていたことを記しています。
また、放生会では、下毛郡の古要社(大分県中津市)と上毛郡の古表社(福岡県吉富町)が傀儡子舞を奉納し、さらに田川郡からは、香春岳(福岡県香春町)の銅で作った鏡が奉納されていました。8世紀の『豊前風土記』には、「むかし新羅の神が渡ってきて、この河原に住んだので鹿春郷と名づけた」ことなどが記されています。つまり、田川郡には銅を産する香春岳があったので、新羅国の神を祀る技術集団が住んでいたことが分かります。八幡神の誕生伝説に見える、「辛(韓)国の宇豆高島」や「鍛冶翁」との関係で注目されています。
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| 八幡神の発展 |
八幡神が、朝廷の編さんした歴史書に登場するのは、天平9(737)年に親羅の無礼を告げる使節を派遣したことを記した、『続日本記』の記事がはじめてです。また、天平12年には、大宰府の次官であった藤原広嗣が反乱をおこし、その鎮圧を行った時にも、朝廷は宇佐宮に戦勝祈願を行っています。そして、天平19(747)年、聖武天皇が進める東大寺の大仏建立に、「全国の神を率いて協力する」という託宣を出し、その功績が認められたので、国家神としての地位を確実なものにしました。
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| 弥勒寺の成立 |
宇佐宮関係の史料によれば、神亀2(725)年に宇佐宮を現在の小倉山に移したとき、東方の日足の地に弥勒禅院を建立しています。そして、天平9(737)年には宇佐宮社殿の西に移し、天平10(738)年に金堂・講堂を建立しました。この事業には聖武天皇の大きな援助がありました。初代の別当(長官)には虚空蔵寺の法蓮がなったとも伝えています。以後、弥勒寺は宇佐宮とともに、神仏習合の輝かしい歴史を続けることになります。
現在の神宮庁や参集殿などがある正参道の西側は、弥勒寺の境内でした。呉橋を渡った西参道の南側には、寺跡の中心遺構保存されています。発掘調査によって、金堂の前面に東塔と西塔を並べた、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であることが確認されています。出土する瓦の文様は、宇佐の伝統的なもの以外に、大宰府系のものもあり、国の援助で造営されたことを示しています。 |