末社 護皇(ごおう)神社




御祭神 和気清麿朝臣命(わけのきよまろこうあそんのみこと)
祭典日 4月4日


 護皇神社は清麿公が、御神教を受けた旧蹟の大尾山の山腹に御鎮座になっている。
 称徳天皇の御代の神護景雲3年(769)に、太宰主神中臣習宜阿曽麻呂(ださいかむつかさなかとみのすげのあそまろ)という者が、太政大臣禅師から法王の位にのぼった弓削道鏡に媚びへつらって、宇佐八幡の御神託であると嘘をいい道鏡をして帝位に即かせるならば天平は泰平であると奏上した。
 天皇は、宇佐神宮を深く御崇拝になっていることであるから、直ぐに和気清麿公に御神教を給わってくるように仰せられた。一方、道鏡もまた秘かに清麿公を呼んで、私欲をつらぬこうとしたが、清麿公は、既に深く決心をするところがあった。公は出発に際して、


西の海たつ白波の上にして
   なにすごすらんかりのこの世を

 の歌を御作りになったが、これは、道鏡が天位に着いたら、吾々は臣として何の面目があらうか、という固い決心の程を示されたものである。だからこそ、我が国は世の中がはじまってこの方、まだ臣下が天子の位に座ったことはない。君の座には必ず皇族から立てなければならぬ。無道の者は早く一帰せよ
 という宇佐八幡大神の神教を御伝えして、弓削道鏡の非望を挫くことが出来たのである。ともあれ、清麿公は都を立って10日余りの旅程で宇佐神宮に着き、斎戒沐浴(さいかいもくよく)して神殿にぬかづき、神護景雲3年(七六九)7月11日この御神勅を頂いたのである。そこで八幡大神託宜奏記二通を作り、一通は神宮に納め、一通を陛下へ御報告するものにして、同月の21日に都に帰り着き御所へ上奏、さらに道鏡へも報告した。このとき清麿公は37歳であった。
 道鏡は、大いに怒って、清麿公の名を別部穢麿(けがしまろ)といい(よぼろ)足の筋を切って大隈ノ国へ流布し、清麿公の姉である法均は名を別部狭虫(わけべいせまむし)と改めさせられ備後へ流罪にされた。公は、途中大神の御守護か膽駒山(いこまやま)の麓で道鏡の刺客からのがれ、それから数日して豊前の国に着いた。
 清麿公は、警備の者の許しを受けて、宇佐神宮を参拝しようと輿に乗って宇佐郡田村にさしかかったところ、300頭ばかりの猪が出て清麿公を守護した。
 そして宇佐に詣でたところ、起つことができなかった足もすぐに治ったという。そして、大神を拝した御配所へ出立した。
 翌年の神護景雲4年8月4日(770)天皇が西宮神殿で崩御、光仁天皇が御即位になって年号を宝亀と改め、同年9月6日清麿公は召し返され、翌宝亀2年3月29日(771)には元の位に着き、9月16日に薩摩の国員外の介に任ぜられたが、間もなく豊前の(かみ)に還された。
 公は古事にも通じ「民部省例(みんぶしょうれい)」や「和氏譜(わしふ)」を撰し、当時の大事業である平安遷都の大功を残した。又道鏡は冠位をはがれ、下野国薬師寺別当として赴任させられたが、宝亀3年4月7日死亡した。
 このようにして、宇佐神宮の国体擁護の御神徳と、和気公の至誠の精神とが皇室を御守護することとなったのである。
 この後、宇佐神宮への勅使を宇佐使また和気使といい、和気氏が派遣されるのが例となった。